肉体の死の寸前まで修行して悟りを開かれたシャカ、ゴルゴダの丘で十字架にはりつけにされて殺されたイエス。どちらもものすごい事です。まともに個人で見つめただけで、ものすごいものが伝わってきます。昔の人はそれを仏とか神と呼んだ。言えていますね。
内、イエス。愛や希望、信仰をたくさん説いたのに、「死刑」に人々にされた。思えば、当時の人々はそのイエスの教えまでも否定したようなものです。たくさんの法を説いたシャカが死刑にされたら?と想像すると、仏教を信じている人たちも置き換えて考えれば判るでしょう。ものすごいことでした。まさに「大罪」を当時の人々は犯した。舞台がヨーロッパやインド、中国、日本であっても、当時の社会から言って、同様だったでしょう。敵や異民族の人たちまで「愛せよ」とイエスは説いた。現代人もなかなかできない事を。超先駆的。だから、支持者はいても、当時の社会に受け入れられなかったわけですね。さらに、イエスを殺した社会の潮流は全世界的に受け継がれている以上、その潮流を否定し、イエスの説いた事を実行しないと、その大罪からは逃れられないわけです。また、敵や異民族への愛は元々はユダヤ教から出たものだし、コーランにも受け継がれており、更には、仏教でも説かれている以上は、他の宗教でも、その大罪は消えると思います。その大罪の中身は大きく、僕が述べられるものでもないですが、その後の封建制度や資本主義、旧ソ連やナチスにも受け継がれたと思われます。
歴史はともかく、これがキリスト教や仏教の核ですね。いきなり神とか仏を語るものでもない。複数の牧師からも「神なんて、本当は存在しない。そこからイエスの福音は始まるんだよ」と言われています。確かに、見えなければ、存在しないのと同じ。聖書も、仏典も無神論者にも通じるわけです。
シャカの苦行とか、イエスの磔の姿を友人と一緒に見つめていると、心も通じてくるようです。平和でもあった江戸時代はそうして、シャカを通して、人々はつながった。少数ですが、僕にも経験があります。ならば、神や仏の事は棚上げしても、そのようにし合えば、これからでも親友なり、恋人や妻も出てくる。それが足りなかった。現代日本はクリスチャンでも、十字架ではなく、歌謡曲につなぎを求める。僕の出会ったクリスチャンのほとんどはそういう状態。離婚も多いわけですよ。さらには、その前に所属した身障会や福祉会。シャカやイエスに無関心で、身障問題やボランティア論ばかり話していた。それらは人はつながないわけですね。大ゲンカや、会が潰れたわけですよ。今のヴィーガンとか、動物共生の人たちにも言えるでしょう。そのような人たちにも、シャカやイエスの事を話していく事に決めました。また、通じるものがあるし、話すべきだと思います。
追伸すれば、今のヨーロッパやアメリカで増えている動物共生や菜食運動は、イエスの説いた「異民族への愛」の拡大したものかも知れないと。人間の他、他の動物にも広げて。科学も発達し、人間と他の動物も遺伝子で繋がっている事が明らかになってきたから。また、イエスとかシャカ、ムハンマドの教えみたいなものが支柱になければ、運動は成立しません。日本の身障やボランティア運動は、支柱にそれらが欠けていたから、挫折したわけです。