<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 14>
*怪獣としてのゴジラにしか語り得ないもの
ハリウッドが世紀末に制作した『Godzilla』はおよそ怪獣映画とはいえない単なるパニック映画でした。ここでの放射能によるイグアナ変異体(としか呼びようがない代物)は宇宙人や殺戮機械に置きかえても不都合のない侵入者であり、人間の被害者でもなければ人間をとがめる存在でもありえなかったからです。ゴジラはあくまで個体として人間によって存在をねじ曲げられたことであるべき健やかな姿から自らにふりかかった災いを周りに撒きちらすだけの呪われた存在におとしめられたのであり、その限りにおいてはむしろ怨霊なのです(『ギドラ』のスタッフはやはり『MG1』『MG2』のスタッフよりよほど鋭かったようです)繁殖するイグアナ変異体は「放射能をあびてより強力で優れた存在に生まれ変わった生物」でしかなく、ゴキブリ並みの生命力と適応性で人類を駆逐する種族にはなりえても(その意味では平成ガメラシリーズのギャオスがこれに近いものです)個人としての人間にその倫理や信念のレベルで何かを問いかける寓意の象徴にはなれないのです。
『ゴジラ』の原作者香山滋が晩年に子供向けジュブナイルとして書いた本を、小学校の図書室で読んだことがあります。題名は正確には覚えていませんが『怪獣ジオラ』だったように思います。これは放射能を浴びたシロアリが巨大化したものですが、最後は羽化して成虫となりどこにもいない同族を求めてむなしく空へ飛びたってゆきます。人間の手で運命をねじ曲げられた結果強大にこそなったものの、結局はこの世に居場所がなくて滅びる定めを負わされたもの。恐竜とシロアリの違いこそあれ人間の犠牲者としてのゴジラと同じ烙印をジオラも持っていたのです。これは姿だけはゴジラに似ていなくもなかったイグアナ変異体が、ついに持つことのなかった属性です。
宇宙人にも巨大ロボットにも置きかえられない怪獣ならではの属性とは、人間の行為によりあるべき姿とかけ離れた存在になり果てたがゆえに、その姿・存在そのもので人間を断罪しうる点にあります。それは社会全体にふりかかる災いではありますが、むしろ個人としての人間に内面的に問いかけるものです。戦争の記憶が風化し人間が己のなしうる行為への想像力を鈍磨させている現代は怪獣としてのゴジラを描くのがますます困難になり、だからこそゴジラを必要としている時代のように思うのです。これからは映画会社という集団の手によるのではなく個々人が寓意の象徴としての怪獣に半世紀前の芹沢博士のように向き合うことで、その物語を紡いでゆくべきなのかもしれません。
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コメント
もも
2020年 09月15日 00:27
イグアナみたいなのですね
ふしじろ もひと
2020年 09月15日 04:56
もも様おはようございます。
映画の冒頭にフランスの核実験に遭うイグアナが映るんですが、ハリウッドが造るゴジラではこの時はフランスだし、2014年のは日本の核施設の事故で敵怪獣ムートーが生まれた尻拭いをアメリカ軍がする話だし、自分たちの核で怪獣が生まれたという話には絶対しないんですよね。当然といえば当然ですが(汗)