<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 11>
*初代ゴジラを機龍に変えてしまう時代としての現代 5
生きていてはいけない自分という思いゆえに機龍を自分の同類と捉える茜に対し、湯原博士の娘沙羅は父親たちの機龍への所行を命に対する冒涜と感じます。次作『ゴジラxモスラxメカゴジラ』(以後この映画を『MG2』と表記します)での小美人たちの視点をここでは小学生である沙羅が有しているといえます。しかし妊娠中の母親を亡くしたことで命に対する冒涜に敏感になったという沙羅の扱いにもやはり微妙な問題があります。現実には小学生の女の子、しかも母親の死を受け入れきれずに眠り草の小鉢をかかえているような子供の言葉に誰も耳を傾けてくれないのは当然でしょう。その意味では沙羅の扱いはリアルです。しかしそのせいで沙羅の言葉は物語に関与する力をほとんど奪われています。かろうじて茜の「望まれなかった命」という言葉への反論がゴジラとの戦いで窮地に陥った茜に力を与える契機になりえていますが、人間の機龍に対する行為への疑念のほうは物語において無力なのです。
これは沙羅の疑念を補強する仕掛けが物語の中でほどこされていないからです。つまり彼女の疑念の正しさを見せつける出来事が物語の中で起こらないからです。
たとえばゴジラとの戦いの中で機龍の外装が剥がれ、機械をまとわせたゴジラの骨が延命装置に埋め尽くされた人間を想わせる無残な姿をあらわにするという演出があれば、沙羅の疑念はそのシーンとの相乗効果を持ち得たはずです(もしくは沙羅自身がその疑念に従って重大な行動を起こすかですが、沙羅の設定上これは無理でしょう)物語の中でぽつんと投げ出されているだけでは子供のたわごとで片付いてしまうのも当然です。
ここでの沙羅の扱いの妙なリアルさは芹沢が物語において決定的な役割をはたしていたのに比べたとき、あのシミュレーションと同じやりきれなさを感じさせます。もはや沙羅の疑念はこの社会において単なるたわごとで片付けられるであろうことが視えてしまうからです。
芹沢の苦悩はこの映画では茜の自己否定と人間がこんなことをしていいのかという沙羅の疑念に分割されていますが、茜の自己否定は彼女自身の体験に由来する思いを機龍に投影したものですから機龍の本質とは直接の関係はありませんし、より機龍と人間の関りを見据えた沙羅は茜と異なり物語に関与することができずにいます。分割されたことで弱体化したと言わざるをえないようです。特に戦争体験による人間性への不信の念が半世紀の年月の中で弱まっているのが小さな女の子の姿に象徴されています。人間性への不信の念が弱まったこと自体は本来歓迎すべきことのはずですが、そのことが人間の自らの行為への想像力の鈍化としてあらわれていることがゴジラ映画を観比べていると視えてしまうように思うのは僕だけなのでしょうか。
おそらくこの想像力の鈍化こそがゴジラ映画がなぜ『ゴジラ』を超えることができずにいるのかの重大な要因であろうと僕は思います。ならば優れたゴジラ映画を作るためには人間の行為への想像力をいかに鈍化させないようにするか、鈍化が避けられないのであれば人間の行為の意味をゴジラという存在にいかに盛り込むかが重要な鍵になるのではないでしょうか。
その12 →
https://www.alldesu.com/diary/70139
← その10
https://www.alldesu.com/diary/70110
コメント
もも
2020年 09月12日 02:12
シリーズ物は1作を中々超えられないですね
ふしじろ もひと
2020年 09月12日 02:43
もも様こんばんは。
それぞれに理由はあるのでしょうが、やはり全く同じものを作るわけにはいかないというのが根本的な理由なのでしょうね。