<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 8>
*初代ゴジラを機龍に変えてしまう時代としての現代 2
xシリーズは人間をなんとかゴジラに対抗させようと試みた結果ゴジラ以上にゴジラである存在としての機龍を産み落とすに至りました。しかしゴジラを生み機龍を生んだ人間の行為の意味はどう捉えられているのか。『ゴジラ』からの距離を痛感させるのがこの部分です。
『MG1』は意外に『ゴジラ』と構図が似ています。ゴジラを倒すための兵器を科学者が開発するプロセスが描かれた映画は実はほとんどありません。しかし実際に両者を比べてみると違いの大きさに驚きます。わざと反対にこしらえたのかと思いたくなるほどです。
『ゴジラ』の芹沢博士は戦時中オキシジェン・デストロイヤーを兵器として開発し、戦後はこれを平和利用できる技術に変えようとしますが、周囲の懇願に負けてこれを対ゴジラ兵器に転用します。芹沢は自らの戦争体験から技術が兵器に転用されることの恐ろしさを知りつくしそれを使う人間(そこには自分自身さえ含まれます)への拭いようのない不信からゴジラと共に死ぬまでに思い詰めてゆきます。オキシジェン・デストロイヤーを作ったのは彼1人であり、それをどうするかの決断も彼にしか下せません。ここには戦争の体験ゆえの人間の恐ろしさへの想像力と、個人の倫理・信念ゆえに人間の恐ろしさがもたらす災いを命にかえても阻止しなければならないという思いがあります。目の前で死ぬ人を助けることができないとしても人間にはしてはいけないことがあるというのが彼の信念なのです。
このような超技術を個人が開発するというのは怪獣同様の嘘でしかないわけですが、ここではその嘘により登場人物に自らの行為への判断・決断を可能とさせて自らの行為が招きうる事態への想像力を発動させているのです。これは芹沢にここで葛藤させることが必要であったことから持ち込まれた嘘であり、それが必要とされたのは人間がいかに恐ろしいことをなしうるかという実感に他なりません(震災と戦災の最大の違いは戦争が人間の手でなされるものであるがゆえに人間への信頼を根底から破壊するところにあります)その記憶が鮮烈な時代であるからこそ、あくまで個人として判断・決断を迫られる作りになっているのです。この映画の重苦しさは本質的にここに由来します。そして当時でさえこれは誰にでも取りうる姿勢ではなく隣国と海で隔てられている地理的条件もあいまって、日本人は戦争の記憶をもっぱら被害者としての立場で受けとめるばかりで戦争を行った主体として自らを振り返ることを回避しつつ年月を重ねてゆきます。芹沢が1人で死んでゆくのがスケープゴートのようにさえ見えます。芹沢の倫理・信念はこの時代ゆえのものでしたが、この時代なら誰もがそれを持ち得たわけではなかったのも確かです。
ならば、それから半世紀が過ぎた現在はどういうことになっているのでしょうか。
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コメント
もも
2020年 09月09日 06:41
ゴジラさん
お子さんいましたね
まんまるいお顔の
ふしじろ もひと
2020年 09月09日 07:44
もも様おはようございます。
ミニラですね。よくご存知で。
吐く光線もまんまるい輪っかだったのもご存知ですか?
もも
2020年 09月10日 01:29
知らなかったです
ふしじろ もひと
2020年 09月10日 01:43
親ゴジラに光線の吐き方を特訓されるシーンがあるのですが、天使の輪っかみたいなのがポッポッと1つずつ出てくるだけなので、親が尻尾を踏んづけたら5,6個まとめてポポポポポ……、と出てきたシーンもありました(苦笑)