その前に、欧米のこの問題と区別を説明しなければならない。欧米でも、両者のフィリアはあり得ないが、それは介護の担い手が伝統的に被差別民であるからです。アメリカでは、黒人や原住民。ヨーロッパでも、アフリカ系やロマが昔から多い。だから、その安い労働力を使い、非常に早くから介護福祉が発達したわけ。身障者になったルーズベルト大統領の介護者も黒人だった事をその映画で知ったわけだし。18世紀末のフランスを舞台の「ああ無情」にも、黒人がお手伝いになっている場面も出てくる。介護もしたわけである。従って、日本とは大きく事情が異なる。
日本の場合も、両者の友情は禁止気味だし、介護士ができる前の、ボランティアと利用者とのそれも、似た事が言われた所もあった。又、施設を訪問しても、「施設の人とは友人になるな」と影の声も聞いている。現に、ボランティア同士、ボランティアと身障者、身障者同士と友人になっても、ムリを押し付け合ったりするなど、ケンカが絶えなかった。それで早くにボランティア活動と、身障運動は潰れている。おかしかった。
その根本も「友情」という言葉自体にありそうだ。それは明治に、西洋の「フィリア」の日本語訳として生まれたものだが、フィリアには情緒的な意味はなく、その訳語は正しくないようである。文字通り、「友情」は、友人間の情緒=甘えという意味になるわけである。現に、日本人のほとんどは、友情と甘えの区別も付かないわけである。問題だと。
本当に両者が甘えの関係になれば、次第に双方がムリを押し付け合うなどして、ケンカにもなり、関係は破綻する訳だから。何か、良い言葉はないのか。また、今更、変えられないだろう。
以上はもっと大きい問題として、日本特有の政治腐敗や、雪印や東芝が潰れた問題にもなっているのである。日本もこの問題をクリアしない限りは前進はないが、コロナをきっかけに変わることはあり得るかもしれない。