僕の行った教会関係では、恋愛と共感の区別が牧師たちでもできない状態。「異性の優しさ・性的魅力」のいずれかに共感して、結婚し、後は心がすれ違い、失望。離婚も多い。
区別が付かないとこうなる。何も僕の行った所だけでも、日本人クリスチャンだけでもない。同様な離婚も非常に聞く。
一方では、その区別がつき、異性に共感しかできない例も多い。教会以前に僕が知り合った人たちにも多かった。僕も「社会活動したり、全生園に行って、偉い」とだけ異性からよく言われていた。それだが、深い差別性がある。何故、「全生園に行く事が偉い」のか。元患者を慰問の対象みたいに見ている。まさに、差別ですよね。皆も、元患者も対等なのに。また、僕に対しては一段上みたいに見られたら、恋愛も、友情も生じないわけである。一段上に見ることも差別である。
因みに、身障の俳人の花だ春兆氏は若い時の経験に「身障なのに、勉強して偉い」と同じ世代の女性たちに言われて、話もすれ違い、交際のきっかけも掴めなかった。僕が言う所の「共感」で恋愛対象から外された悔しさを綴っています。気持ちも判ります。
共感とは何でしょうか。共感の反対は無視や無関心、さげずみ。共感が消えたら、日本の場合、部落や在日系、聴障の差別も消える気がします。実際、人伝手に聞いた所、若い時に知り合った一聴障者は必死に、聴障者が世間から無視されている事を訴えていたそうです。その福祉会でも無視され気味だった。僕への「偉い」と裏腹。どちらも差別には違いないですが。