祭り上げられた事は偶発的な出来事ではなく、日本のキリスト教の歪みは勿論、ヒットラー台頭に絡むかも知れない大きな根があった事に気が付きました。ドイツ以外の欧米のキリスト教はどうなのかね。ひょっとして、黒人差別にも絡むかもしれない。大体、「共感」はできる人とできない人が。それを中心の価値観を持つと、労働性とは別の意味で、人を差別する事にもなるわけです。もし、80年代の僕が祭り上げられていい気になり、そのままでいたら、差別を認めることにもなる。黒人を差別する人たちと変わらない事にもなりかねません。精神障碍者たちは日本でも共感される事もなく、ひどい差別を受けている。聴障者たちもそうですよ。共感中心の価値観は障碍者間の深刻な差別も産むわけです。あってはならない事ですね。
それにしても、祭り上げられた因縁が見えつつあり、その面では気が晴れつつあります。良かったわけです。改めてイエス・キリストに問います。「あなたは共感を求めたのか」。ノーですね。無論、黒人差別も。日本以前に、欧米のキリスト教は本当に狂っているのかもしれません。もう一つ言うと、歎異抄には共感に当たる言葉は一切出てきません。禅宗もそうですね。日蓮・法華関係と。共感に救いはないかもしれません。
(僕は未確認だが、旧友から「アメリカのスピーディ・ワンダーたちは、共感などから社会変革運動をしている。我々もやりたい」と聞いた事がある。スピーディ・ワンダーは黒人・盲人だが、歌手で大金持ち。その運動の成果は聞いた事がない。そのような事をしても、資本家たちに利用され、うまくいかなかったのではないかと。もし、まともに社会運動するのならば、資本主義やお金のことは勿論、「共感に伴う差別性」も徹底的に考え、別の価値観を求めるべきだと思うわけだが。)。