記憶をたどると、1970年代、僕の10年以上先輩の身障運動家たちの中には、盛んに労働者たちに「連帯」を求めていました。そのような文を読んだ事もあります。その世代にはマルクス系の影響を受けた人たちも多かったから、資本論にある「労働者の連帯」からそのような事もされたのでしょうね。
僕の世代はマルクスの影響は少ない例が多かったですが、僕も本当は無意識的に連帯を求めたのかもしれません。連帯という言葉も判らなかったですが。福祉会の役員の言うがままに行ったハンセン氏病の全生園ですが、あるいは僕は本当は「障碍者同士の連帯」を求めて行ったのかもしれない。又、福祉連帯を求めて、ボランティア関係にも首を突っ込み、子供会にも行った。案外、それが理由だったかも。でも、どちらも僕は失望して早く去った。どちらも「連帯」を見出せなかったから。そう考えると、自ら納得できる。島田療育園もそうでしたが、当時は日本全体が連帯という発想はなかった気がします。ハンセン氏病元患者も、ボランティアの人たちも日本人には違いないですからね。
そして、今になり、僕が青春時代に求めていたもの=連帯だった事が判りつつある。市民連帯とは違う、もっと大きい連帯。コロナの影響か、どうかは判りませんが。「同じ人間の遺伝子を持つ・命を持つ連帯」という観念はコロナのはるか前からありましたし。
訳が判らないなりにも若い時に何かを求めて良かった。求めたから、今は「連帯」を堂々と言える訳だから。無論、若い時に関わり合った全ての人たちに感謝もしています。ありがとう。