日本では新約聖書の言葉の有名な所は隣人愛などの「愛」かもしれない。島田療育園の人たちもよく語っていた。たしかに、元気に方々で説教をしていた時のイエスは「愛」を多く語っていた。でも、すでに語ったように、人間のする愛には限界があり、又、そのような愛は自力的なので一人相撲をして自滅する人たちも多いのも事実である。
そのイエスは、「最後の晩餐」の時に、「私をこれから裏切る人が出る。彼は、生まれて来なかった方がよかったと思うだろう」と指摘するわけである。無論、ユダの事である。「裏切り」、「生まれない方がよかった」は強い憎しみ、又は、非難の言葉である。ユダを産んだ者も神ならば、神の意にも触れかねない。普通の人がそう言えば、神否定にもなるわけである。イエスの深い苦悩・葛藤も読み取れる。
翌日、捉えられ、十字架上への道。かつてはイエスを賛美した人たちも、彼に唾を吐きかける・悪口を言うなどが多かった。苦悩は深まった。後、「この杯を除けて下さい」と神に言う場面があり、更には「(神の)意のままに」と言っている。いわゆる「絶対他力」になったわけである。
「神の意のまま」ならば、神が生んだ一人に違いないユダも許した事になる。かつて述べた自力的な隣人愛も越えて、他力的な大きな愛に代わったと言えるのではないか。
また、ルターの「信仰のみが義」の根拠の大きな一つでもある。信仰のみが義なら、愛はその下になるわけだから、聖書に矛盾するのではないかとも思った事もあったが、以上の通りならば矛盾しないわけである。
つまり、イエスも最後は絶対他力の考えになった。それは「阿弥陀のままに」という仏教・浄土真宗や、「アラーの意のままに」というイスラムの発想にも通じるわけである。
かつては自力的にも思える愛をイエスは説いたから、それを下敷きに「意のままに」という事にもなったと思われる。それがなければ「意のままに」もなかったから、自力的だと思われる愛も否定はできない。因みに、日本の親鸞上人も若い時は自力的な事にチャレンジしたが、時間を掛けて他力思想を持ち、90歳の最晩年は「自然法爾=自然のままに」という考え方になった。それをイエスは短時間で他力思想になったわけである。
2日遅れの復活祭の文でした。(参考文献.新約聖書、歎異抄)