戦後の日本人などが死を忘れたり、嘲笑を無意識的にする。死の持つ重大性に気が付かない事は集合意識レベルの問題であり、ユダヤ・キリスト教で言われている「原罪」の一種だと思いました。それ故に「電気椅子をネタの漫才」とか、殺しにあふれたアニメや子供向けドラマにもなっていたのでしょう。そういえば、ウルトラマンなどの子供向けドラマは怪獣を容赦なく殺す話ですね。その影響を受けたと思われる子供が学校で、生きたカブトムシをそのままカッターナイフで半分に切り、それを見た女の先生が気絶した事も新聞に出ていました。
意識的な罪は犯罪であり、いけませんが、無意識的にそうしてしまう事は本人が気が付かないから始末に悪い。多くの国民がそうしてしまう事は、もっと始末に悪いです。さらに、死をまともに見ない・自覚できなければ、自分の弱さ、他人の弱さも判らず、人と付き合えなくなる。付き合ってもケンカばかりとか、独り言の羅列みたいにもなるわけです。性的な興味で結婚しても続かないとか。介護関係でも、介護士と要介護者が意志疎通もできず、果てはケンカや虐待にもなる。医者もそうならば、次第に患者との距離ができ、相手を人体実験にするような誘惑にもとらわれる。島田療育園で聞いた「人体実験」もそこからきているのでしょう。そこはクリスチャンが多かったですが、やはり、死に無関心で、死を見ず、いきなり愛をしようとしていました。多磨全生園で知り合った無教会伝道師に島田療育園の話をした所、「一切の失敗は原罪の絡みから起きる」と述べてくれました。「死に無関心」も原罪だとすると、その通りですね。その他、1980年ごろに首都圏で目立った身障者同士の大ゲンカや、ボランティア活動の行き詰まりもそのような事だったと今は思います。変なクリスチャンばかりいたのも。「自分の死をまず自覚し、十字架上のイエスの死も想い、死のつながりでイエスとつながり、神の恩寵を受け、その感謝の気持をもって隣人を愛していく」がキリスト教ですが、そうではなく、いきなり聖書を読み、愛を自分の精神力でしようとするクリスチャンが多い。だから、挫折もしたり、レイプ牧師も複数輩出する結果にもなるわけです。
因みに、「死」は自分の死に限ります。親含めた他人の死を見つめても始まらない。親鸞上人は「私は父母にも念仏した事はない。念仏は私だけのものである」と現代語に直して、語っていますが、そのような事ではないかと。その個所も僕は判ってきたかもしれません。
「気が付かない」内は仕方ないですが、少しでも気が付けば、それまでの自分の原罪と社会のおかしさを悟り、気持ちを吐き出し、新たに心を入れ替えるとまともな生き方ができます。コロナに限らず、何かを鏡に「死」を見つめて下さい。気が付き、「死ぬ弱さ」を身近な人から話していけば、まともな関係もできるわけです。
コメント
Yoshi
2020年 03月24日 14:11
必ず訪れる「死」なのに
きちんと見つめ合ったことがなかったです
これから しっかり考えていきたいと思います