僕と出会う前に、島田の一人の男の園生が女子職員に恋文を書き、双方が傷ついて、女子職員は島田療育園から離れた事件が本人の手記文にあり、僕も非常に印象的だったから、小説にも盛り込みたいと思っている。本人は「恋愛」と思い込んでいたが、実際はその女子職員に優しい言葉を掛けられて、「そのまま結婚したら優しくしてくれるのではないか」と思い込み、強い期待感を持ち、「好きだ」と書いたと。察しはついている。何も身障関係に限らず、そのような期待的な異性への想いは世間・世界にはあふれているからだ。
では、以上が期待感からくる恋愛もどきだとして、「本当の恋愛とは何なのか」と人に聞かれたら、今までの僕は返答不可能だった。判らなかったから。恋愛が判らないで、以上を書いても機械的な書き方しかできないわけである。
本格的な恋愛も、自分の死の自覚からくるわけである。「この身もいつかは朽ち果てる。どんなに医学が発達しても、死からは逃れられない。それゆえ、自分が、与えられた現世がたまらなく愛おしい」という想いから始まり、友人や隣人たちもそう思うようになり、そこに気が合う異性が現れ、共にそのような切ない気持ちを抱き合う。これが恋愛である。「詩編」などの旧約聖書にはたくさん恋愛詩も述べられているが、それも以上の想いから初めて理解できる。親鸞上人の恋への想いも。万葉集とか、源氏物語とか。
以上を認識するとしないでは、恋文事件の書き方もかなり違ってくる。因みに、83年ごろに書かれ、今は絶版になった島田療育園のルポルタージュ本でも、手記を再現しただけになっている。
因みに、その園生はクリスチャンだったが、「十字架上のイエスとの死の共有」については語っていなかったし、島田にいたクリスチャンたちもそうだった。その後に僕が行った教会と変わりがなかった。コロナが流行るまで、日本でも全部のマスコミも、教育関係も、世間も「死」の事は語らなかったから、教会だろうが、島田だろうが、死の事に気が付かなくなるのは当然だったと思う。時代状況の下で誰もが生きているわけである・
コメント
Yoshi
2020年 03月20日 09:59
この日記を読んでから
恋愛のイメージが変わりました^^