M氏の信じていたものは実は神への自己投影にしか過ぎなかった。自分が神様みたいだった。そこから気が付いたが、僕の行った教会関係の牧師たちも同じだった。確かに、その教派は「教会組織=神」ならば、その組織で説教をして管理している牧師たちは、最初はその気はなくても、次第に自分が神様みたいな錯覚が生じて、そのような信仰心になり、傲慢にもなる。また、信徒たちも牧師を「先生」と呼び、へつらう例が非常に多いわけだから、そこからも傲慢になる。M氏よりもはるかに傲慢にも。その結果の一つが在日韓国人への差別発言とか、レイプ・隠ぺいだね。実際、レイプする人たちは傲慢な人が多いと心理学者たちは報告しているし。性欲だけの事ではないと。
説教を聞き、教会組織絶対化など、僕はおかしいと思い始めた。また、おかしさを感じず、牧師を先生と呼ぶ信徒たちも。聖書には「地上の者を先生と呼んではいけない」とある事を知り、ますますおかしいと思うように。牧師たちの言う事も僕は信用しなくなった。身障運動の影響もあったと思う。牧師たちも健全者には違いないから、信用できないという気持ちが。とに角、それでよかったと思う。その教派の信徒たちも、レイプや在日韓国人差別事件の共犯者なのだから。大罪がその教派全体を取り巻いていると。M氏の件よりもはるかに大きいわけだ。
教会組織=神と頭ごなしに信ずることを信徒たちに要求。これは困った事だが、信徒たちも牧師たちを現人神にしている面も強い。戦前の天皇と国民との関係も連想されるわけだ。誰かを神にする事も大罪と言わなければならない。(誰かを神にすると、その人と信徒なり、国民との関係しかできず、信徒同士や国民同士の意思疎通や関係もできなくなるから。僕の行った教会派信徒同士が無関心など、冷たかったが、そのような構造的なものだった。僕への介護とか、ボランティア活動で冷たさを改善する動きもあったが、根本問題も皆判らなかった以上、逆効果ばかりで、やればやるほど、悪くなっていった)。
僕がその教会で見たものは、聖餐ごっこに過ぎなかった。明らかに連帯や友情を欠き、自分の幸せだけを願う聖餐。おかしかったと。僕が見ていた時はすでに、同教派の教会で少女レイプが牧師により、繰り返されていたわけです。冷たいから「聖餐はコンパ」という発想も出たと。すでに僕はコンパは大嫌いになっていたから、おかしさも深く判ったわけです。コンパからは上べだけの関係しかできません。愛や意思疎通のない、冷たい関係しか。これも現代日本の状況であり、根を辿ると明治の教育勅語にまで行くのかもしれません。
恐ろしいものを色々見て、僕は去ったわけです。去ったのも当然でした。その教派は本当に潰さないといけない所でした。