どうも氏の信じていた「神」は自己投影に過ぎなかったようだ。もし、自分・社会・世界を越える「真の巨大な神」ならば、無神論者たちも包み込む祈りを持つ訳だし、本当に伊藤まつさんの信仰はそのようなものだったが、彼の言う神は違う。他の施設の氏の友人も、僕への手紙の中で証言していた。「氏の言う信仰は近寄りがたかった」と。その他、東大法学部・今は弁護士の頭が非常に切れるA氏も「彼の信仰は、M教みたい。何かおかしい。自分よがりの狭さを感じる」と。ならば、信仰心みたいなものが後年は崩れていったが、真の信仰ではなかったと見れば、大体判る。
「無神論者も包み込む信仰」ならば、氏の運命も大きく変わったと思われるわけです。園生たちとの折り合いも悪かったし、以上の他の施設の友人も氏と絶縁までしている。そのような事もなかっただろうし、また、少なくとも、最後は手術をするような所に行く事はなかったわけです。ある意味では、自業自得だし、そのような人に短絡的に同情はいけないわけです。伊藤まつさんと親しかった、無教会伝道師にも話しましたが、「その悲劇は自分が作っている。同情したら、いけない」とおっしゃられていましたが、その通りですね。
光明の先生にも一人、そっくりみたいな信仰の人がいました。カトリック信徒ですが。最後は、生徒の母親の一人と大ゲンカして、退職になった。卒業生たちも後年まで悪口が絶えなかった。そのような信仰を持つ人が今は多いかもしれませんね。
(僕もM氏との交友には苦労しました)