1970年代の東京の諸々の福祉団体や身障団体の見聞である。
もちろん、一つ一つ違ったが、会合やコンパでも、一人一人違った事を抽象的に言うだけだった。他人に理解させる努力はもちろん、メンバーの声を聞く努力にも欠けていた。と言うより、今思えば、自分の意見を言う事も、聞く事もほとんどの者は「知らない・気が付かなかった」のである。発言も、自分の感じた事を述べるだけの会員がほとんどだった。これでは、ふれあいにはならないため、メンバーは常に寂しさを感じていた。特に、役員に当たる人たちは痛感していた。これが初期段階であった。
「寂しさ」を埋める為、共通の話題を探したが、見つからない。他の同様な団体の情報は入るが、目的とか理念、行動は会によって一つ一つ違う。次第に他の団体を叩く発言が会員間で起き、それを通して、会員がまとまり、連帯を求めるようになった。または、内部の違った意見の者の悪口を言い合い、叩くとか。僕の旧友の身障女性運動家も、所属していた身障会の仲間から叩かれ、傷付いた事を話されている。確かに、「意見が違うから」と言って、叩くのはおかしいわけである。そのような例は非常に多かった。また、身障団体間の戦争みたいな激しい団体ケンカも多発し、当り前みたいになっていた。戦争みたいな事はなかったが、ボランティア・福祉団体も他の団体の悪口を陰で言う人たちが非常に多く、それで同様に連帯しようとしたわけである。または、内部の違った意見を持つものを叩くとか。あるいは、当時は養護学校義務制化の法案が成立間近かだったので、その関係でその法案や文部省の悪口を言って、共通の話題にムリにしようとした会もあった。あるいは、根が深いハンセン氏病差別にいきなり関わろうとするなど、ムリな行動ばかりして、会員だった学生さんたちが勉強ができなくなり、留年したり、中退する例もかなり出た。そのような会はいくらでもあったようだ。
大体、当時の身障会は内外の大ゲンカでどこも早くに潰れていたし、ボランティア・福祉会も、ケンカは少なかったかもしれないが、意思疎通ができない為、何をしてもバラバラになり、約束も守らない事が当たり前みたいにもなり、コンパをしても、独り言の羅列ばかりで、これらも早く潰れた。
日本の首都でこのような事ばかりが多発すれば、福祉の進展が遅れたのも当然だった。あってはならない事ばかりしていたわけである。また、身障者は勿論、健全者たちにも非婚例が多い。内、非婚身障者たちのほとんどは「健全者や世間の差別で結婚できなかった」と思っているようだが、それは違うと思う。意思疎通が出来なければ、どんな異性と出会っても、結婚どころか、恋愛も、友人にもなれないわけだから。
以上の件は島田療育園みたいに細かく文で再現する気は僕はないが、非常に根が深い問題であり、その根本は「意思疎通欠落」以外には考えられない。今も日本では意思疎通問題が形を変えて現れている。困った事である。
(追記すると、「内部の違った意見の者を叩く」とか、「外部に敵を作り、まとまろうとする」はファシズムである。ミニ・ファシズムという、危険な風潮が以上にはあったのは事実である。ファッショ性については当時の僕も察していた。でも、その原因が意思疎通であったことは、最近判ったわけである)