以前も少し話したが、僕がそこを訪れる数年前、20代前半だった、身障園生M氏が一人の女性職員に恋愛感情を抱き、そのままラヴ・レター書いたが、女性側が受け止め切れず、そのまま退職し、双方が非常に傷ついた出来事があった。一つには、そのような事を想定していなかった島田療育園の不備である。別の恋愛事件で、身障ミニコミ紙はその不備を強く叩いている。想定すべきだったと僕も思う。
でも、M氏の意識も問われるものがあると今の僕は気が付いている。というより、明治以来の日本の恋愛観である。「好き」と言う感情をただ相手にぶつけて、恋愛は成就するだろうか。そもそも、愛は感情なのか。M氏はクリスチャンだが、「愛は感情や優しさ」と言っていた。イエスも感情で愛をしたと信じていた。でも、すでに話した通り、イエスは「何をして欲しいか」と意思疎通を行なったわけである。後年、旧約・新約聖書を端から端まで通して読んでいる内に、M氏の「愛」のおかしさも見えてきた。意思疎通がM氏の発想に欠けていた。職員や母親からも「M氏は他人との意思疎通が苦手」と聞いている。でも、何もM氏に限った事ではない。僕の出会ったほとんどのクリスチャンたちは、M氏と同じ発想である。他に、「愛はセックス」と信じていたクリスチャンもいた。一つには、教会の礼拝が問題かもしれない。聖書のある個所をいつも断片的に読むから、体系的にイエスの事が判らず、「意思疎通」という肝心な事が読み取れないという。でも、最大の理由は、今の僕が述べている教育勅語以来の日本社会の意思疎通軽視の件である。実際、M氏と同じ事をして振られてばかりいるクリスチャン男性も多く見てきたし。また、男女共、いきなり異性に感情主体や仲良し関係を求めるクリスチャンも多いから、僕もそのような女性たちとは友人にもなりにくかった。今の僕ならば、「意思疎通」を強く求める所だが。何分、日本人クリスチャンの発想は「感情が愛であり、神」らしい。僕はその発想にはついていけなかった。実際、そのような人同士もついていけないわけである。結婚しても変わらないから、離婚にもなるわけだ。戦前は教育勅語に反対した人たちがクリスチャンには多かったが、学校社会の鋳型にいつのまにか、嵌められたと言おうか。
とにかく、島田療育園と言う恋愛や結婚がただでさえ難しい所に、男女交際の方法を誤っていたから、悲恋になったわけである。島田だけでも、「愛は意思疎通」という観念があれば、状況はかなり変わり、寝たきりの方でも何とか結婚生活ができたかもしれない。残念に思う。
因みに、クリスチャン女性でなくても、僕は「愛は感情」と信ずる女性たちとは今も付き合えない。「愛は意思疎通」と言う僕の考え方を理解して下さっている方とは十分に付き合えているが。日本には少ないタイプの女性だが、僕が結婚できるとしてそれしかいないだろう。M氏とは違い、愛は感情や優しさとは思わないから。今の僕がM氏と文通したら、どうなるだろうか。面白そうだが、書けない話である。わからないから。