まず、僕自身が良くなる。過去の僕の落ち込み、人生停滞、ケンカなどは、全て、限りあるはずの脳への信仰みたいなものに気が付いたから。頭でっかちになると、誰でもごうまんにもなるが、僕もそのような面が今まではあったかもしれない。
中学時代、つまり、自我が芽生えた頃から僕のクラス・メイトも独り言を言う例が目立った。僕もそうだし、授業中に独り言も言い、先生から変に思われる例も。他の学年もそうだった。高等部に入り、それがひどくなり、ある女生徒が「みんな、バラバラ」と言ったのを覚えている。当時読んでいた旺文社の生徒向け雑誌にも書かれており、全国的な問題。僕の学校だけでもなかった。卒業後に入った多くの福祉会、身障会、親睦会ではもっとひどかった。話が噛み合わないか、噛み合うと大ゲンカにもなる。「話さない方が良いじゃないか」という意見も出た。島田療育園の身障園生同士や、多磨全生園の元患者たちも同じだった。
今思うと、島田療育園の医者の園生への人体実験の一因もこれだった。確かに、脳はつながっていない以上、医者は患者の気持ちは判らないし。一聴障者が言った「耳の不自由な人の気持ちは、聞こえる人には判らない」の件も。実際には、聴障者同士の関係も同じだが。
80年代、「日本では、精神病になる人たちが増えている」という話をよく聞いた。そうだろう。悩みを持ち、人に話しても相手にされないのが当たり前だから。相手にされても、誤解したり。
その傾向は時と共に日本でもひどくなり、今は親子でも気持ちが判らず、殺し合いも行われている。夫婦も。唯脳の行きつく果ての姿である。あるいは、最近の先生同士のイジメの問題とか。全て同根のようだ。外国も同じか、もっとひどい国も多い。異民族同士の殺し合いとか、神父の性事件なども。
一方では、脳は死ねば終わり。脳が見せるものは、はかない夢だとも思う。脳も一種の物質にしか過ぎないわけだし。
ここら辺で、見方を変えて見ないか。