今朝の医学関係の投稿文は、元々は40年来の医者の一旧友にあてたものです。フェイスブックでは、(韓国・中国系含む)各コミニティにも投稿し、「イイネ」も頂きました。コミニティに投稿すること自体が社会性がある内容だという事ですね。その医者の方とは、昔から福祉や社会の話をして、互いに目を外に向け合った仲でした。詳しいやり取りはさすがに忘れましたが、その延長の一つが今日の投稿文につながったわけですね。そのような人と付き合えて、良かったと思います。
しかし、各会で多くの交友失敗例や大ゲンカ、恋愛レスの様子も僕は見ています。以上のやり取りと、何が違うのか、考えてみました。失敗した関係はいずれも「内向きになる」か「社会批判」に終始するようになっていた例ばかりですね。ITがなかった頃は、何かの会に入らないと人と出会えなかったですが、「会」というものは、続けると会長・役員に次第に目が集まり、内向きになるわけです。役員制がなくても、仲間内にしか目が行かなくなるとか。そうすると、構成員たちは互いに視野も、発想も狭くなり、他人の心を受け入れる事もできなくなってしまう。その場合、少しでも自分の気に入らない事を言うような人たちが許せなくなり、ケンカにもなる。無論、社会に無関心になるか、批判しか能がなくなります。確かに、社会は矛盾に満ちていますから、批判も当たり前かもしれませんが、それだけでは何もよくりませんね。改善策を考え合う事も必要ですが、視野や発想が狭くなった場合は改善策などは考え付きませんよね。批判だけに終始するような人も出てきたわけです。
また、互いに他人の心を受け入れ合う事ができなければ、異性の気持ちも受け入れられないわけです。恋愛レスとか、恋愛しても短期間で終わるようにもなっていたわけですよ。健全者同士でもそうならば、障碍を持つ者はもっと相手にされなかったわけです。
やはり、心を受け入れられない状況があれば、特に聴障を持つ人は相手にされにくいのではないでしょうか。そのような例も見てきているわけです。
無論、会の中に限らず、ITなどで個人と個人のやり取りしても、内向きになれば、同じになるわけです。夫婦もそうでしょう。離婚にも至ると。
僕の見てきた会の中で、一番内向きだったのが、僕の行った教会関係でした。教会組織自体を神として絶対視もしていた。おかしかったわけです。後年の「レイプした牧師の事実隠ぺい」はその果ての姿だし、内向きになり、他人の心を受け入れられないようになれば、レイプする牧師も出ますよ。ハンセン氏病療養所も内向きだと言われていますが、そこもそのような人は出ないわけで、それよりもはるかに内向きでした。レイプされた方に遠くから、微力ながらも祈っています。
恋人関係なり、夫婦関係ができて、愛で満たされれば、同様に多くの人達にそうなってもらいたいと思うのは当たり前かもしれません。それゆえ、子供の有無に関わらず、世間に・世界に慈愛の眼差しと心を向け、できる範囲の社会活動をするようになっていく...、その様子を脳裏に思い浮かべても、真の愛とか友情は外向きが当然になるわけですね。そのような事も思います。