僕が小学5年生だった時だから、1966年だったが、一学年先輩の一つの男子児童のお母さんが他界され、その人は歩けて、介護の必要もないだけ、脳性まひ障碍は軽かったが、当時はヘルパーもなかったし、世話をする人もいないため、そのまま全寮制の別の養護学校に転向した事があった。その一年後に母親たちの会話から、その先輩の様子が僕にも少しだけ聞えた。
「転校先で、ひどくいじめられている」。
まだ小学生だった当時の僕は、かわいそうに思っただけだった。その後の消息は聞かない。学年も違うので、名前も忘れた。でも、ごく最近、「仲間」の連想から思い出したわけである。たしかに、母親が他界された上に、転校を余儀なくされ、イジメに会う。いじめた子供たちも障碍児なのに。本人は極めて辛いに違いない。何と言えば、良いか、判らない。でも、極端な例ではないが、昔の光明養護学校でも他の学校から転校した子たちはいじめられるか、無視される傾向が各学年にあったと記憶しているし、公立校では昔からこの問題が深刻である。更には、公立校の場合、精神障碍を持つ子供たちは特にいじめられる事が多い。僕もその声を一友人から聞いている。学校時代は地獄だったわけである。学校を卒業した後も、職場を含む、各種コミニティでは、聴覚障碍者たちがいじめ・無視に会う例が多いと、聞いたり、インターネットで目にしている。父からの話によると、戦前の軍隊内でもイジメはひどく、更に「オウム真理教の中にあるイジメは、昔の軍隊そっくりだ」と語っていた。
以上、それらはコミニティの仲間感覚の違いに合わない人がいじめられる・無視されるのではないだろうか。確かに、共通している。また、仲間感覚の違う人が入ってくると、根拠はないのに、その人に嫌な感じを構成員たちが持ち、和も乱れるから、更に嫌い、そこに優越感を持ちたいというエゴも出て、イジメや無視になる。十分にあり得る。仲間になる・仲良くなると言っても、どうしてもそのようにできない人はどこにでもいるわけだし。
ならば、仲間意識の根は仲間感覚とか仲間色彩みたいになってくる。当然、根拠もないわけである。でも、それでいじめや無視が起こっているのならば、そうされている人たちはたまらないわけである。更には、聴覚に障碍を持つ人たちは、仲間に入っても、周囲の事が聞こえないわけだから、仲間感覚にも染まらず、自分の訴えたい事を言うこと専門になり、結果的に仲間の輪を乱したりもして、差別もされる。このようにもなると。昔、僕も入った福祉会の一つに、聴障を持つ人もいたから、そのような事も書くわけだが。その人も、聴障者たちの悲惨な状況を訴えていたわけである。
話は群生動物。アリでも、ライオンでも、仲間を組む。仲間間はフェロモンの違いで識別し、仲間ではない同種の個体が入ってきた時は追い出すか、殺すまで叩く。これが群生動物の生態である。ならば、フェロモン認識で仲間作りは人間はしないが、「仲間感覚」なるものが疑似フェロモンになっているのかもしれない。以上挙げた現象に動物学を当てはめれば、そうなりかねない。仲間感覚にこだわる事は、人間らしくない行動だとも言えるし、学校でも仲間関係作りではなく、愛とか、友人作りを教えた方が良いのかもしれない。因みに、仲間こだわりが日本だけの現象かは、僕には判らない。外国の事は知らないから、述べられないわけである。また、僕は日本に住んでいる以上は、日本社会の問題から追及する事は当然である。