どうも昔の島田療育園に行き、深入りすると、同情不感症になるらしい。僕がそうだったし、一緒に行ったVYS島田班の人たちがかなりそうなっている。その証拠は、例えば、全生園で判った。僕にしろ、かなりの島田深入り者にしろ、全生園に行っても、元患者たちの差別とか寂しさの訴えにも可哀そうだと思わなくなる。僕含め、かなりの島田同行仲間が「全生園は酒が飲めて楽しい」という反応である。または、元患者の話は一切聞かず、自分の話したい島田の事を元患者たちに一方的に話しまくっていた人もいた。元患者は返答に困っていたと。
なるほどねえ。人体実験とか麻薬、労働争議などの島田の極限状態を見聞きして、考え詰めていくと、他の本来は悲惨なものを見ても、何も感じなくなってしまうと。元患者たちの「親子離別」みたいな事を聞いても、「人体実験の方が悲惨」としか思わなくなるわけだ。VYSの中でも、島田に関係ない人たちは同情が強かったらしい。その面でも、VYSは分裂状態にあった。
もう一つ。「キリストの十字架」を深く想い詰めても同じになるらしい。イエスの十字架上の苦しみを非常に思いやると、他の事は可哀そうでもなくなる。本当にそのような無教会伝道師がいて、伊藤まつさんに深く関わった。その人は同情が大嫌いで、元患者たちに同情する人たちを非難していました。でも、現代は勿論、近代や中世ヨーロッパにもそのような信仰深い人は稀にしかいなかったわけです。又、何も無教会伝道師の全部がそのようでもないでしょう。たまたまそのような人と僕も知り合っただけの事です。
ただし、以上の二つの話をつなげると、島田療育園には、「キリストの十字架」に匹敵するような苦難があったと言わざるを得ません。非常に難しい所でした。