M氏とは、島田療育園の男性元身障園生。出会って間もなく、僕に手記文を下さった。内容の核心は、「(1977年から)数年前、私は脳のロボトミー手術の実験台に選ばれた。当日、仮病で難は免れたが、代わりの女子園生の一人が選ばれ、そのまま実験された。その女性は体が悪くなった」というもの。(手術受けた女性の体の変化の様子の記述はなし)。又、「罪をその女子園生に感じている」。
悲痛な声を世間に伝えて欲しいと僕に明らかに頼んだわけだ。M氏の僕への願いはそれだけだと言って良い。例えば、自分の好きな歌とか、好きなスポーツの話は一切しなかった。親睦や交友は希望していなかった。慰問も。その立場からすれば、当然だろう。気持ちは昔の僕にも判っていた。
でも、当時の僕の人脈は狭かったし、伝える方法も会合に手記文を持っていく事しかなかった。当時は自分に小説が書けるとも全然思わなかったし。それでも当時としては手を打った。当時、よく行っていた富士福祉事業団の事務所兼会合場所にはコピー機もあるので、手記をコピーし、その場所に置いて来た人たちに自由に読んでもらったり、また、所属会のメンバーに配ったり。限界があった。別の園生関係の大きなトラブルに巻き込まれ、手記どころではなくなり、そのままうやむやになり、気が付いた時は紛失もしていた。でも、核心部分はちゃんと覚えていた。
ITが発達し、ブログも、フェイスブックもある今の時代になり、やっと広められるようになった。また例の実録小説を書き始めて、島田療育園の問題が初めて客観的に見る事ができるようになり、世間に説明できるまでになった。これが一番大きいと。もしも、1977年にITがあっても、広める事はできなかったと思う。
40年ぶりに、M氏からの大任を成し遂げ始められたと思います。
そのM氏ですが、1982年でしたが、島田療育園を退園。一時は下町地区の家で在宅生活。でも、87年ごろ、千葉県の施設に入所。そこでまた「実験的手術」。そこは見てたの良い医者がいて、仮病も使えず、そのまま受けた。そこで氏からの便りも途絶えました。僕が氏について語れるのはここまで。僕は本人ではないので、氏の気持ちはここでは書けません。一旦は実験手術から逃れられたのに、同じ運命が行った先に待ち受けていた。実験手術は何も島田療育園だけでもないのです。更には、施設関係だけでもない。世界的に精神病院が一番多いはずです。他、誰でも病気やケガになり、入院すると人体実験台になり得る。全ての人達の問題なのです。考えてみて下さい。