「希望と引きこもり問題」の文で、参考までに書いたアウシュビッツ。虐殺された人たちは気の毒だが、では、虐殺したナチスやその賛同者たちはどうだったのか?、考えてみました。
「希望」なるものはゼロに近かったと言えるでしょう。
まず、ナチスは特に二つの発想から成り立っていました。「第一次世界大戦でドイツを叩いた国々への報復」と、「ユダヤ人の経済搾取への憎悪」。前者は後ろ向きな気持である事は言うまでもないですね。確かに、それらの国々もドイツに過度な弁償金を求めて、それでドイツ経済を破たんさせたなど、悪かった面はあります。でも、だからと言って、報復攻撃をして、何になるのでしょう。仮に、ナチスが核ミサイルを作り、イギリスやアメリカを破滅させたところで、ドイツ人たちの為にはならないわけです。ユダヤ人関係も。経済的な不公正が本当にあれば、法律関係で対抗すれば良いわけです。殺してもドイツ人の為にならないし、ユダヤ系の中にも良心的な人とか、子供みたいに搾取とは無縁の人たちも多かったわけです。子供たちまで殺したのは、もっと悪いですね。
報復の件に限らず、ナチスの考えには未来向きのものが欠落していました。例えば、「ユダヤ系を抹殺か追放し、遺伝的病因も取り除き、健康な人たちがあふれるドイツ社会を目指す」。その具体的な姿も語られていない。どのような社会になるのか、ナチスの人たちも実際は判らなかったと。本当に体力がある人たちだけの社会になれば、病気がちの人たちはいなくなるから、体を皆思いやる事もないわけです。ならば、思いやりのない社会になる。体が丈夫で、思いやりのない人たちだけならば、一旦何かのトラブルが起きれば、それこそ、腕力に任せた大ゲンカが多発して、警察も仲介できず、どうにもならなくなりますよ。また、恋愛や結婚も。思いやりのない恋愛は性欲だけのものになる。これも一度トラブルが起きると、大ゲンカになる。短気で別れるはずだし、結婚してもすぐ離婚。子供も生まれなくなるわけです。社会崩壊。
未来ヴィジョンというものがナチスにはなかった。ヒットラーは本当は希望がない、過去しか向いていない人だったし、ナチス幹部は勿論、それを支持した多くの当時のドイツ人たちもそうだったと言えます。希望がない事は怖ろしいわけです。
また、収容されたユダヤ人みたいなものを「絶望状況」と呼ぶのならば、その絶望の中には「希望」も含まれています。明るく強い希望が。その言葉もおかしい気がします。
むしろ、希望に気が付かない人たちの方が問題だと言わざるを得ません。かつて、僕の行った教派も、以上のナチスに通じる深い問題がありました。でも、その教派の人たちの事を時間を掛けて、徹底的に考えて、「希望の大切さ」を悟れた以上、そこに行って僕は良かったわけです。
コメント
Yoshi
2019年 06月28日 15:55
勉強になりました
m(_ _)m
トシコロ
2019年 07月01日 10:54
>Yoshiさん
ありがとう。