引きこもりの人たちにも、中年以降になった人達に対しても、その人に合う「希望」を持たせれば、変わってくるかもしれない。
ところで、こんな事に気が付いた。「希望を持てない」事と「絶望状況」は違うのではないか。「絶望状況」の典型とされているのは、ナチスの強制収容所に入れられたユダヤ人たちと聞いている。確かに、彼らにも毒ガスで殺される運命は判っていた。自由を奪われ、人権も奪われ、家畜以下の存在と見なされ、殺されていった彼ら。でも、アンネが典型的であるように、書く事が得意な人は思い切り書き残し、また、書く事が苦手だったり、まだ字も書けない子供たちは絵を徹底的に書いた。後世の世界中の人たちに何かを残そうとした。無論、彼らの想いも一人一人違うが、結果的に後世に生きている我々の心を打ち、虐殺や民族差別のない世界を作る動きにつながっている。つまり、彼らにも「希望」はあったわけである。本当は極めて大きな希望が隠されていた。彼らの事を「絶望」と呼べるのか。少なくとも、絶望状況と希望が持てない事は違うのかもしれない。
何もひきこもりの人たちだけでもないだろう。今の日本には、希望が持てない人は多いわけである。明治以来の日本社会の一方的な価値観が原因かも知れない。明治以降は富国強兵が国の価値観になり、国民に浸透させていった。与謝野晶子が弟に対して「君、死に給うことなかれ」という、戦死するなと述べた詩を発表した所、多くの人たちから叩かれた事は有名である。戦争の度にそれが強くなり、1945年の終戦で終わった。それ以降は平和主義を求めた事もあったが、次第に「富国」だけになり、1989年までその価値観が日本社会を覆った。戦前、戦後と価値観の多様性を認めなかったわけである。戦前は強兵に希望を託し、戦後は経済だけに託すような人が多かった。ところが、バブルが崩れ、人口も頭打ちになり、富国もうまくいかなくなった1989年以降は日本社会自体に希望がなくなり、日本自体がひきこもり社会になっている気がします。そこに就職難が重なり、就職できなかった人たちが顕著に引きこもりになっていった。僕の推察通り、本当に日本社会自体に引きこもりの要素があるのならば、引きこもりの人たちを更生させるのはこのままでは難しいでしょう。
「多様な価値観を認める」事も大前提にある気がします。一人一人が違った希望を持ち、尊重し合えるような社会になってほしい。与謝野晶子が叩かれたような社会は御免です。
コメント
Yoshi
2019年 06月26日 15:06
ボクは 小さい事でもいいので 夢や希望がないと生きていけないです~
どんな小さい事でもいいので 叶わなくてもいいので 持っていたいものですね^^