仮説なので、このような題にした。少しだけ述べよう。
心・意識・命が軽視され、物質偏重の価値観が世界に蔓延すると、「人間も物質だ。心も脳のタンパク質が生み出したものに過ぎない」と思う人たちが非常に多くなる。そして、他人と心を通じさせる事にも気が付かなくなる。他人への思いやり・愛も余り考えなくなる。自動的に自己本位の気持ちになる。社会性が失われる。
そうすると、人間は気が弱い人たちは寂しく感じてウツにもなるが、そうではない人たちは自分の欲望ばかりを追うようになるのではないか。但し、その「欲望」は何があるだろうか。学問・研究や美術創作に欲望を振り向けるひとは少ないそうである。心軽視では学問も、美術も関心が向かなくなるだろうし。誰でも思い浮かぶだろうが、食欲・金欲・性欲の三つを求めるわけである。でも、前二者には限りがある。いくら金持ちでも、牛肉を一度に10キロは食べられない。ごちそうばかり食べても、飽きる。お金も、人には寿命があるから、いくら貯めても、使い道に限界がある。でも、人間の性欲は他の動物とは違っていて、無尽蔵で季節無しである。他の動物は性行動する季節も決まっているし、老いればしないのに、人間は違うわけである。しかも、理性での抑制も効かない。それゆえ、太古から異性と心を通わせる方式で、乱交を防いできた。それで恋愛に関する文学などの文化も発展させてきた。社会も秩序が取れていた。しかし、物質偏重になり、異性とも心を通わせられない状態になれば、性欲を抑えられなくなり、そこに性虐待しやすい状況が何かできれば、そうするのではないか。今は男性優位の社会だから、男の性虐待犯が多いわけである。
物質偏重社会でも、特に資本主義システムは欲望を肥大化させるようである。それが非常に発達した日本・アメリカ・ヨーロッパでポルノが流行っているのも以上の通りではないかと。また、教会やお寺もその時代の文明価値観の枠の中で作られているから、神仏よりも物質に目が向き、結果的に性虐待する牧師・神父や坊さんが出てくると。(この種の件で、犯人の性欲も議論になる。性欲過剰な人たちには、それを抑える薬が必要だろうが、問題の的がずれているのではないか。性欲が強い人でも、性虐待はしない人たちもたくさんいるわけだし。心が通い合う社会になれば、相手の気持も判り合うわけだから、相手の嫌がる性虐待も非常に減る・なくなると僕は見ている。アイルランドの件も大きな文明の歪みの現れの一つだと。それは非婚者や離婚が増えている事も明らかに同根であるし、諸々の福祉のひずみにもつながっているわけである。文明の歪みの根は深い)。
とにかく、被害者へのケアも大事だし、性虐待のない社会にする事も大事ですね。