十字軍戦争と日清戦争の歴史を少し見て、心の通じ合いの必要性を僕も痛感します。
近代には、「お金が社会や人を結ぶ」みたいな考え方が発達しましたね。それが資本主義と共産主義に分かれたから、事が複雑になったわけですが、それはともかく、確かにお金や食べ物も大事だと思います。バカにはできません。でも、それが人を結ぶまでに強い絆を産むのか?は非常に疑問だし、すでに歴史は答えを出していると思います。
また、僕が痛感する事は、障碍も、セックスも人は結ばない事です。僕の経験や見聞からの事でもそう言えます。40年前の日本の首都圏では、身障者たちが障碍の絆を作り、社会変革しようとしましたが、かなりの身障会はその身障者たちの価値観の一人一人の違いからバラバラになるか、内紛にもなった。ハンセン氏病関係でも、ハンセン氏病差別への見方が一人一人違い、元患者間の絆はできていません。一方、ここ数年、ネット関係で離婚経験女性たちの声を聞いてきた。セックスは本当につなぎにはならない。その時の会話や意思疎通が日本人はうまくないから。あれも本当は心の交流が主。肉体接触はコミュニケートの1%くらいだと僕も見ています。障碍にしろ、セックスにしろ、肉体的なものですが、それが意思疎通になるような事はあり得ないでしょう。以上の2つも、19世紀以降の唯物論から出たものだと僕は見ています。特に、肉体機能上、セックスは女性が受け身専門になるせいか、心の交流を欠く夫婦セックスは女性が非常に嫌うようになるわけです。プライバシーに触れるから、詳しくは話せませんが。結果的に日本は子供が生まれなくもなる。その原因も、唯物に偏り、心の通じ合いを忘れた事だと思います。
経済の大切さ、分配ルールなどの重要性は認識しつつも、その上で唯物論から離れて、精神主義にも陥らず、バランスの良い発想に持って行かないといけない事が歴史の流れから読み取れるのではないでしょうか。