40年来付き合い続けている元学生ボランティアの旧友で、その「意義」が自分でも判らず、悩み続けた人がいた。学生時代に行ったS園にしろ、主婦になってから個人的に関わった一障碍児にしろ、関わりながら「私は何故行くのか」と自問的な手紙を僕にも下さった事もあった。やっと僕なりの返答ができたようだ。先ほど、簡単な手紙を葉書に書いた。要約すると、以下である。
1.その場合、2種類ある。個人的に行く場合と、グループで行く場合。
2.個人的に行く場合は、その根は純粋な活動意欲。それ自体が尊いし、目的でもある。関わり合っていけば、相手の問題もたくさん出てきて、社会に通じるような事にも発展する。だから、意義の件で深く考える事もないように思えます。
3.グループで行く場合が問題。次第に、ボランティアしたいのか、仲間関係を作りたいのか、自分たちでも判らなくなるから。関わりも中途半端になり、大体が関わりを投げ出す。
その人の場合は、若い時も、後年も「2」だったと察しています。僕の対S園もそうでした。今は色々と社会に通じている。僕の手紙でその人の心のもやもやが晴れるかは判りませんが、その人に初めて友人らしい言葉を掛けられた想いです。まず、僕が「書いて良かった」と思いました。
確かに、「3」の例で、関わりを中途半端に投げ出して相手に迷惑・被害を与えて逃げるように障碍者などから去っていったボランティアも多いですからね。昨日書いたM会の事はよく知りませんが、それらの例から、遊びに行かなくて良かったと、思い出し、想うわけでもあります。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」の通り、「3」ならば、構成員はほぼ全員がそのような気持ちになり、失敗しますよ。身障運動も同じですが、この場合は意見対立からケンカになりやすいという、別の厄介な問題もあるわけです。
それと、蛇足的に付け加えると、健全者の団体に障碍を持つ人が加わる方式も問題が多いようです。介護にしろ、手話にしろ、「個人と個人」のやり取りが基本ですが、それができにくいから。特に、聴障者は深刻らしい。検索するとそのような例も沢山あります。聴障者は健全者の仲間関係に入りにくい。無論、恋愛や結婚の類も、「個人と個人」だから、元々仲間関係の中では難しく、その中に入れば、障碍を持つ人たちはもっと困難になるわけです。「愛は個人レベルの受け止め合いが基本」という事がどうも日本社会では余り認識されていないようですね。